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視聴者はどうしてヤラセに厳しいのか?

昔のテレビ 映画・テレビ・IT
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フェイクとヤラセ

トランプ大統領になってから「フェイクニュース」という言葉が流行りましたが、日本では定期的に、テレビ番組の「ヤラセ」が話題となります。

ワイドショーやバラエティ番組のヤラセ批判と、フェイクニュース批判とは、よく似ている感じがします。

確かに、ヤラセも一種の「フェイク=嘘」です。

ただ、あらかじめ「演出=嘘」を前提としているワイドショーやバラエティ番組には、ニュースでいう「ファクト=事実」に当たるものがあるのかどうか、どうも曖昧です。

にもかかわらず、日本の視聴者は昔から、テレビのヤラセに厳しいという印象があります。

なぜでしょうか。

日本製ドキュメンタリーのある種の傾向

海外ドキュメンタリーとの比較

日本と海外のドキュメンタリー作品を比較すると、日本人のヤラセ嫌いの本質がわかる気がします。

あえて大雑把に比較します。

海外のドキュメンタリーは、目的が正しければ手段は問いません。

つまり「正しい」ことを伝えるために、あらゆる「手段=演出」を駆使します。

対して日本のそれは、手段の「適正さ」が問われます。

いくら目的が正しくても、演出で「やりすぎ」てはダメなのです。

歴史的ドキュメンタリーとの比較

リュミエール兄弟のシネマトグラフは、最初期のドキュメンタリー映画だともいえますが、有名な「列車の到着」(上の動画4:24〜)は、降りてくる乗客に「仕込み」を混ぜています。

ルイス・ブニュエルも「糧なき土地」(1932年)で、撮影できなかった決定的瞬間を、何の断りもなく「再現」しています。

これらのエビソードには、ドキュメンタリーに対する「非日本的」な考え方のルーツが感じられます。

ナレーションを多用する意味

「ナレーション」の扱いに注目すると、日本的な考え方がよく分かると思います。

日本の作品はナレーションで進行するものが多く、逆に海外の作品はあまりナレーションを用いません。

前者がナレーションで説明する内容を、後者はインタビュイーに言わせます。

言わせる、というのは語弊があるかもしれません。

彼らは積極的に、時にはノリノリで視聴者を導いているように見えるからです。

ですから、海外のドキュメンタリー作品を見ていると、役者ではないはずの出演者が演技しているように錯覚することがあります。

日本の作品でそのような印象を受けることはまずありません。

もちろん、人やカメラの前で話すときの文化の違いもあるでしょう。

しかしそれに加えて、日本の作品には、インタビュイーの言葉と制作者の言葉を切り分けたいという、ある種の「潔癖症」があるように私には思えます。

ドキュメンタリー

ありのままというファクト

最初に書きましたが、「フェイクニュース」というときの「フェイク(嘘)」に対峙するのが「ファクト(事実)」です。

日本のドキュメンタリー作品におけるファクトとは、「ありのままの」出演者や出来事であり、そこに過剰に演出(仕込み・再現・演技…)が介入すると、「ありのままではない」という意味のフエイク、つまりヤラセとなるのではないでしょうか。

非日本的なドキュメンタリーは、そもそも「ありのまま」を信じていません。

カメラに写っている時点で、素人でも「ありのまま」ではないのです。

ところで、1980年代くらいまでは、テレビドラマに「これはフィクションであり、実在の人物・団体とは一切関係ありません」というような但し書きがついていました。

「フィクション(虚構)」とは、エンターテイメント化した「フェイク」です。

やはりここにも、潔癖症的な「ありのまま」信仰があらわれているように思います。

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